III. 日本人観にみる国家意識

 

 来日初期のイエズス会士の中でも,ザビエルは「日本人は新しく発見された諸国の中で,最も高級な国民であると思う」13)と1547年,マラッカで最初の日本人アンジローに接した時に,その印象を報告している。ザビエルの後継者のヴィレラは「武士は病気で死ぬことなく,戦死するために生まれたと信じて居り,生命を惜しまず,思慮あり,文化が進み,貴国(ポルトガル)にいる者も彼らに劣るとは思わない」14)と報告した。その後,1563年より1597年まで日本に滞在したルイス・フロイスは「パードレ・メストレ・フランシスコが述べたように,彼らは文化,風俗及び習慣においては多くの点で遥かにイスパニア人に勝り…」15)と賛美している。
 1533年,ポルトガルのアゾーレス諸島のサン・ミゲル島に生まれたフランシスコ・カブラル16)は,コインブラとリスボンで勉強し,軍人としてインドに派遣され,オルムズのトルコ艦隊との戦いに参加した時,イエズス会に入会し,その有能さにより司祭となった。短気で議論好きで,頑固であったが,その短所を自分で戒めるようにしていた。説教の才能があり,イエズス会に深い愛情をもっていた。1561年,ゴアで神学を教え,非常に有能であった。スペイン人ペロ・ラミーレスは巡察師として日本へ派遣され,巡察後には日本布教長になる予定であったが,マラッカから中国に行く途中に遭難し,死亡したので,カブラルが第2代目の日本イエズス会布教長のザビエルと一緒に来日し,高齢,病弱であったスペイン人トルレスの後任となることになっていた。カブラルはインド管区長の代理として,一時的にマラッカ,マカオを視察し,日本布教長になる予定であった。マカオに到達したのは1568年8月のことであった。翌年の日本に向かう船の都合により,もう一年マカオに滞在しなければならなかった。
 ニエッキ・ソルド・オルガンティーノ17)は1532年,イタリア,ブレシアに生まれ,日本でも「宇留岸様(うるがんさま)」と呼ばれ日本人に親しまれた。オルガンティーノはアジアでの布教を希望し,イエズス会総長に9年間も頼み続け,アジアへ派遣されることになった。1567年3月,リスボンを出発し,9月にゴアに到着。1569年5月2日,ゴアを出発し,日本に向かったが,インド管区長からマラッカとマカオを代理として巡察するように言われた。8月23日,マカオまで来たが,その前年にマカオから日本に向かった帆船が進めず,マカオに戻らざるを得なくなり,一年間マカオに留まることになったカブラルが居たのである。運悪く,そこにインド管区長の巡察師として日本へ向かうイタリア人オルガンティーノとカブラルが一緒にマカオに滞在したのである。
 つまり,マカオにて二人の上長が滞在し,権限をめぐっての確執が表面化することになる。マカオでインド管区長の代理が二人になった。オルガンティーノは巡察師の権限は自分にあるとカブラルに主張し,カブラルはオルガンティーノが巡察師に任じられたことは,カブラルこそが地域的上長であるとして,自分が上長であるとして譲らなかった。マカオにおいてカブラルは同じポルトガル人である司令官のマヌエル・トゥラヴァンソスと親交を深めたが,イタリア人のオルガンティーノはそうではなかった。この点においても,マカオがポルトガルの勢力圏にあり,イタリア人であるオルガンティーノは外国人に過ぎなかったのである。オルガンティーノはイエズス会総長に対してカブラルは日本布教長に相応しくないと罷免を要求した。カブラルは自己過信し,名誉欲があり,自分に反対するものを嫌悪するというものであった。インド管区長の任命の仕方の明確さに問題があったし,オルガンティーノは「農民の息子」と呼ばれたが,カブラルは「貴族」の出身であり,インドでの経験及び教養においても,優っていたが,ポルトガル領域以外でうまくやっていけるかどうかはまた別の問題である。結局,マカオで争いながらも1570年6月18日,二人とも同じ船に乗船して天草の志岐に到着した。7月の天草での会議により,カブラルは3代目日本布教長となり,オルガンティーノはルイス・フロイスの後継として京都布教長となり,トルレスは病弱のため日本で死んだ。
 ポルトガル人カブラル布教長は日本人との関係が良好でなかった。日本の政治は野蛮的であり,国民は偽装的であり,領主達は打算的にキリスト教や自分達イエズス会士を南蛮貿易に関連して考えている。また封建君主として自由に住民を入信させたり棄教させることができるので,封建君主に優る宣教師はいないと考え,このような態度は日本人に悪影響を与えた。天草で4年も通訳として奉仕した日本人通訳はカブラルに解職を申し出て,それが受け入れられると,直ちに分派をつくり,そのグループは150名にも及び,多くは教会をいやがり,その彼の説教を望んだ。このような事件の影響にもより,カブラルは以下のような日本人観を表明するに至った。

 

 「私は日本人ほど放漫,貪欲,不安定で偽装的な国民を見たことがない。彼らが共同の,そして従順な生活ができるとすれば,それは他になんらの生活手段がない場合においてのみである。ひとたび生計が成り立つようになると,たちまち彼らはまるで主人のように振舞うに至る。日本人のもとでは,誰にも胸中を打ち明けず読み取れぬようにすることは名誉なこと賢明なこととみなされている。彼らは子供の時からそのように奨励され,打ち明けず,偽善的であるように教育されるのである。彼らには血族的な繋がりがあるが,日本におけるヨーロッパ人には,一人の親族があるわけでもない。彼らはラテン語の知識もなしに私たちの指示に基づいて異教徒に説教する資格を獲得しているが,これがためにわれらを見下げたことは一再に留まらない。日本人修道士は,研学を終えてヨーロッパ人と同じ知識を持つようになると,何をするであろうか。日本では仏僧でも20年もその秘儀を明かさぬというではないか。彼らはひとたび教義を深く知るならば,上長や教師を眼中に置くことなく独立するのである。日本人は悪徳に耽っており,かつまたそのように育てられているので,それから守るためには,主なる神の御恩寵によるほかない。日本で修道会に入って来る者は,通常世間では生計が立たぬ者であり,生計が立つものが修道士になることは考えられない。日本人は同宿として用いるべきである。彼らは私たちと同じ家に住み,説教の助けをしたり,通訳をしたり修道院での用事をする。彼らは修道士よりも多く働き,司祭を見下げることもなく,イエズス会員ではないから,私たちはあまり激昴することもない」18)

 

 これに対して,オルガンティーノの日本人観を挙げる。

 

 「日本人は全世界でもっとも賢明な国民に属しており,彼等は喜んで理性に従うので,我等一同よりはるかに優っている。我等の主なる神が何を人類に伝え給うたかを見たいと思う者は日本へ来さえすればよい。彼らと交際する方法を知っている者は,彼等を己の欲するように動かすことができる。それに反し,彼等を正しく把握する方法が解らぬ者は大いに困惑するのである。この国民には,怒りを外に現すことは極度に嫌われる」19)

 

 ローマのイエズス会総長に宛てたオルガンティーノの書簡には次のようにある。

 

 「私たちは当都(みやこ)地方全域の改宗に大いなる期待を寄せており,尊師が私たちのもとへ幾人かの良き人を派遣して援助されることを望んでいる。なぜなら都こそは,日本においてヨーロッパのローマにあたり,科学,見識,文明はさらに高尚である。尊師,願わくは彼らを野蛮人と見做し給うことなかれ。信仰のことはともかくとして,われらは彼等より顕著に劣っているのである。私は日本語を理解し始めてより,かくも世界的に聡明で明敏な人々はいないと考えるに至った」20)

 

 以上の比較検討によれば,明確な見解の相違があり,一致がみられなかった。
 国際化を経て,更にグローバル化21)と言われる現代にあって,国境線は消滅することはない。しかし,もともと国民,民族の願望は永遠であり,常に自由と解放を求めていることに及び,相互理解の必要性と共にその困難さが浮き彫りにされる。グローバル化と言われても人間には古今東西,永久に国家意識と帰属意識が存在する証左である。

 

目次へ   次ページへ


13) 松田毅一『大村純忠伝』教文館 1978年 362頁
14) 前掲書 363頁
15) 前掲書 364頁
16) 松田毅一他訳『ヴァリニャーノ日本巡察記』平凡社,1973年,285-286頁
17) 松田毅一他訳『ヴァリニャーノ日本巡察記』平凡社,1973年,287-288頁
18) 松田毅一『ヴァリニャーノとキリシタン宗門』朝文社,1992年,38-39頁
19) 松田毅一『ヴァリニャーノとキリシタン宗門』朝文社,1992年,45頁
20) 松田毅一『ヴァリニャーノとキリシタン宗門』朝文社,1992年,47頁-48頁
21) グローバル化と言う言葉は,国家の存在を前提にした地球上の生活(国家主義)では,的を得ていないし,国際法上も実現できない全くの空論であると考える。私見によれば,実際に国境線を越えたところの遠くの反対側の地球上で起こっていることは,どこでも起こりうるという危機意識,即ち Contemporaneity の意識をもつことが肝要である。つまり,筆者による(仮称)理論の「同時代論」である。この意識をすべての人間がもてない以上,国際社会の中の任務を遂行できることはない。永遠に島国である平和な日本に住む日本人には,実にこれが理解し難い。国際社会の中にある日本と日本人がどうして世界に認められる貢献ができないか,どうしてそのための法整備が遅れるのかなどの考え方の違いも理由のひとつである。しかし,これは別の機会に論考すべきテーマであろう。